映画ドラゴンクエストユアストーリーの感想(いい方)


ネタバレあり


2019年に公開された映画ドラゴンクエストユアストーリーを見た。

この映画のターゲットであろう小5の時にSFC版をプレイした私のようなドラクエ世代は、今や仕事では中堅として安い給料で重大な責任を押し付けられるチープジャパンの屋台骨を支える働き盛り世代

映画のことをすっかり忘れて生活していたけれど、我が家にあるSONYのテレビー改め子供がYの字をもぎとり「SON」となった中国感あふれるテレビをよくみると、標準でアプリを使う機能があるではないか。ふつふつと湧き上がるドラクエ映画を見てみたい気持ち

今やネットフリックスやアマゾンプライムなど、映画でも物理的レンタルではなくストリーミング再生で見る時代だった。ゲオにDVDがないなーと探し回るアナログすぎた自分を恥じつつ、グーグルプレイを起動し単品レンタルでドラクエ映画を探す。あった。1日400円。うん高くねえ?

いや違う、違うのだ。ゲオやツタヤの100円レンタルが安すぎるのだ。映画を自宅のテレビで映す価値が400円以下だと感じる、私の脳にこびり付いたデフレマインドこそが、日本人の給料が上がらない原因ではなかったか。

よし!まずは自分から行動しなければ。ここでスクエニに400円を突っ込むことこそ、自分の給料を上げることになるはずだと信じて!

It's a son.


その1 フローラとビアンカ

映画はひとことで言えばよかった。

最初に言っておくと、私は原作ドラクエ5の発売前からシングルCDが付属したファングッズ「導きの書」を購入・熟読し仲間にするモンスターを決めていたし、発売後はSFCで軽く10回以上はプレイし、PS版、DS版、スマホ版のドラクエ5をためらいなく購入し、何なら初恋の人はビアンカというちょっとアレな大人であり今回はそんな人の感想だ。

ドラクエ5の親子三代にわたるストーリーを1時間30分程度に収めるのだから、映画はかなりの要素が割愛されるだろうなと想像していた。

実際、主人公の子供時代は丸ごと省かれたし、メインキャラ以外のセリフもほとんどない。それどころか、ドラクエ5の代名詞モンスター仲間システムすら存在しない。スライムとキラーパンサーが仲間になるが、ストーリー上の展開に必要なだけで、主人公が類まれなる「まものつかい」である設定などはもちろんない。

ドラクエ5のモンスター仲間システムは、以後の日本ゲーム出版物業界を変えた画期的発明品だと思っているので、パン業界でいう塩パンなので、他のどんな要素を外していても入れて欲しかった。

しかし、全ての要素を詰め込むことなど到底不可能だと分かっていたはずで、仮に「天の岩戸」をモチーフにした映画をつくるなら、古事記のように謎めいた神話と突拍子もない神々のエピソードを忠実になぞるより、現代の観客が持っている価値観や趣味にあうエンターテイメント性をもたせようという試みの方がいたく健全ではないか。

そうなるとアマテラスは腹筋が6つに割れているし、岩戸は最終的に木っ端微塵に吹き飛ばされることになる。そこでドラクエ映画が何を重視したかといえば、物語であり、結婚だ。

奴隷時代のマリアが登場しない、ヘンリーがチョイ役、サンタローズが「あばら家」など、話があまりにもオリジナルなので前半不安を覚えたものの、サラボナの街についてからはそれが一変する。

どんな深刻なシーンでも数秒で駆け抜けた今までとは違い、フローラと主人公の会話にちゃんともたらされる「間」

サラボナは住民でにぎわい、ルドマンが住んでいるのは豪邸を超えてもはや宮殿であり、ビアンカが滞在する薄暗い酒場は身分や富の格差を暗示させる。話はなぜか再会したことになっているフローラと始まる恋物語、時間をかけて描かれる感情表現。ゲームの主人公は無口だったが映画では、あからさまにフローラに好意をよせている様はあまりにも斬新で楽しい。

ビアンカ派の私としては嫌な気持ちになるのかなと思いきや、そんなことは全然ない。なぜなら、フローラが分かりやすく主人公に好意を寄せているからで、この剛毅な恋愛武将フローラの猛攻撃に落とせない男がいようかと主人公に同情すらしてしまう。夕焼けに染まる映像の美しさはフローラの攻撃力をさらに倍増させ・・あれ?いま自分フローラ派になってる・・?
途中で再開するビアンカは、聴衆が「あのビアンカ!?」みたいな反応をしていたから名のある冒険者といった設定か

ブオーンとの息もつかせぬ戦闘シーンよし。呪文のエフェクトもいい。フルCG映画らしく、派手で大げさなアクションと非現実的な立ち回り、スローモーションのカットシーン。個人的には主人公には杖を使って欲しかったが、まあ剣のほうが無難だよね

ゲームのビアンカは、再開した時から主人公の結婚について一物を秘めていた。しかし、映画のビアンカには全くそんなそぶりがない。それどころか、主人公にすら全くその気がなく、ブオーンを倒した後はすんなりとフローラへプロポーズするではないか。おいぃ!思わず今年いち叫んだ!

これでどうやってビアンカと結婚するのか不安になってきた運命の日、唐突に表れた占いおばばが飲ませた謎の薬によって主人公の隠された本心、ビアンカを思う心が解放されてしまう

このシーンは、最後まで見ると秘密がわかるが、現実世界の主人公が「フローラを選ぶ」と決めてゲームをプレイしたせいで、ゲーム内にそういう呪いがけられているという設定で、ではなぜ占いおばばにモシャスったフローラ自身がその呪いを解いてしまうのかは謎

結局はビアンカを選ぶ人が多いという事実を表しているに過ぎないのか・・それか単純に、原作でもフローラは、立ち去ろうとするビアンカをわざわざ引き留めて結婚ガチバトルを申し込む男気あふれるキャラなので、そういうフローラらしさを出すための演出なのかもしれない

世界を超越した設定を見抜き干渉するフローラの凄さは、天空人の血を引いているからとかそういう理由かもしれないが、好きな人をあっさりと手放す引き際が武士のそれであり、もっと主張しなければ生きていけないと余計な心配をしてしまうほど映画ではフローラの良さが目立っている

とにかく、ドラッグをキめた主人公はついにビアンカに結婚を申し込む。この辺のくだりだけで30分。丁寧に描かれているとはいえ圧倒的短時間での起承転結。物足りない、物足りないが喜びの顔に変わっていくビアンカを見て感動せずにはいられない!

結局ビアンカが結婚について感情を表したのは再開シーンだけで、一緒に冒険をして、酒場で酔いつぶれてもなお滞在しているというわずかな一挙一動に主人公への想いが込められていた、というとてつもない脳内補完が必要だが、告白の瞬間だけは見た人全員がビアンカに惚れてしまうこと間違いなし。
ここまでだけでも十分に価値があると思わせてくれる映画だった。まだ見ていない人には是非見て欲しい。おすすめです。

映画版の結論:結婚したのはビアンカだったが、主役はフローラ

世にあふれるドラクエ映画の感想はオチをめぐる賛否ばかりだが、時間が経つにつれ映画版ビアンカとフローラについてもっと掘り下げられていくと思う。




その2 グランバニアのサンチョ

映画は最大の山場を超えていきなり最後の山へ。もう時間がない。クライマックスまで駆け足だ

グランバニアが存在しないことになっているので、結婚後にサンタローズへ戻る一行。なぜなのだ。
  • ゲーム 母のマーサを助ける目的→天空装備を集める→グランバニアでサンチョと再会
  • 映画 母のマーサを助ける目的→天空剣収集済み→サンチョがいる故郷へ
なるほど。こうしてみると、天空装備が剣しか存在しない映画世界では、母を助ける可能性のある遺物を収集し終えた今、主人公が偉大なる母サンチョのもとへ帰るのは当然のように思える。そこからマーサに繋がるパパスの情報を洗いなおそうとしたのかもしれない。あるいは、子育てに不安を感じて保育士の資格も持っている(かもしれない)サンチョの力を借りようとしたのではないか。ひらたく言えば、サンチョなしには話が進まない。
気になるのは、映画版のキャラクターとモンスターのデザインは、原作にアレンジが加えられているのがすぐ分かるようになっていて、例えば主人公のターバンは布が2色になっていたり、フローラとビアンカの髪型が違っていたり、キラーマシンに謎の機構が追加されていたり、ゲマのアゴがよりしゃくれていたり

ところが、サンチョだけは全く同じ!ふびん!

それが熟慮の末の結論なのか手抜きなのか知る由もないが、変える必要がないという判断が下されたことだけは確か。

原作では国王であるパパスの従者という役割があるが、映画版ではそもそもパパスが王なのかどうかも明らかにされていない。だが、坊ちゃんという呼び方、サンチョのような身なりのいい男が家系三代にわたり家族同然・・よりは一歩引いて世話係のように暮らしている様を見るに、映画世界でも、言及されないだけでパパスはやはり異国の王という設定が生きていると思う。

サンチョはその後、ゲマの襲撃から主人公の息子を逃がし、8歳まで育て上げるという大役を果たした。




その3 天空の勇者

少し戻り、サンタローズでは一人息子のアルスが生まれている。レックスという名前では双子の印象が強すぎるため、ドラクエらしいオリジナルネームとなった。私的には圧倒的に幸宮チノのソラとテンというイメージがある

幸せな生活は長くは続かず、ゲマの襲撃で石にされてしまう主人公。そう映画ではなぜかゲマが家に来る。悪夢の家庭訪問だ

ゲームは石像にされた主人公が、どこかの家族にオークションで引き取られ、庭先に飾られたまま季節が移り替わり、何年も何年も過ぎていくというあの演出が大好きだったが、映画の石像はあんまりにも苦しそうでつらい。
2000ゴールドの石像。後にこの家が小さい島にあるポツンと一軒家だという設定もそそる。考えた人天才。しかし、瞬間的に石化させられるなら、確かに映画のように絶叫したままの姿が妥当にも思える。原作のようなスマートな石像は、ドット絵の良さを活かした寓話かもしれない。

ストロスの杖ももちろん息子が使う。8年ぶりに感動の再会というわけにはいかず、襲い来る魔物を前に、思わず手に持っていた天空剣をぶん投げた主人公。天空剣を引き抜き、真の力を発揮したアルスこそが、天空の勇者だったのだ!というくだりで2回目の山場

原作の背骨にあたる子供勇者設定をしっかり活かし、映画では主人公こそが伝説の勇者かもしれないというミスリードからの息子覚醒という胸熱展開が分かりやすくとても良い。

そして勇者の見せ場は終わる。勇者・・とは?




その4 ドラクエ訴訟

ところで小説版ドラクエ5というものがあって、当時子供でドラクエ5マニアだった自分も読んだ。細かくは覚えていないが、強烈に印象に残っているシーンがある。

ビアンカとの結婚後、砂漠の町テルパドールを目指した一行がオアシスで過ごした夜のこと

結婚したものの、再開した幼馴染という関係性のままだった主人公とビアンカだが、ついに何かの営みを始めようとしたのか、偶然の出来事だったか、主人公が半裸になる。その背中に奴隷時代に受けたムチの傷跡を見てビアンカが涙するというシーンだ。

当時、子供心に鞭って傷跡ができるんだすげえみたいに思ったし、小説ながら広大な砂漠で月夜に照らされた二人が、同情を乗り越えてついに本心から相手と心を向きあわせるシーンがあまりにも美しく、その後、あらゆる砂漠の物語を見るたびに、例えばパウロコエーリョのアルケミストみたいな本を読むたびに「ドラクエみたいだな」という感想を持つ大人になった

ゲームには当然そんな描写はなく、小説の原作者久美沙織氏の筆の力がなせる技なのだが、今回、その作者が映画ドラクエを訴えたという。

小説の主人公の名「リュカ」の無断使用ということらしく、ことの顛末が分からないので何ともいえないが、一つ言えることは、私にとってドラクエ5は、プレイしていた小さい頃の自分を昨日のことのように思い出せるし、昔住んでいた家のベッドに横になりながら小説を読んで憧れたあの日のままに、PS、DS、スマホ版とアップロードされ続けている現在進行形のゲームであり

そこで大人同士の争いが起こり、プレイする子供たちが起きざりになるような事態は、ただただ悲しいということだけだ。
ある男のスマホ画面

そういえば映画版は、サラボナに行く前に一瞬だけ砂漠でゴーレムに追いかけられる描写があるので、天空の剣を探し世界中を巡り巡って、最後に結婚にたどり着いた、ということかもしれない。結婚後にサンタローズへ直行した理由にもなる。




その5 ゴールドオーブ

ドラクエ5といえば子供時代の自分との再会。時間的に難しいかなと思っていたら、しっかりと入れ込んである。

ただし天空城とか関係なく、マスタードラゴンの力を取り戻すために必要な設定。

映画のプサンことマスタードラゴンはトロッコで数十年回り続けた酒場のマスターではなく、光の教団のおひざ元で地味にレジスタンス活動をする白ヒゲが似合う丸メガネの紳士。おなじみの鳥山感は皆無だが、ゲームよりプサンといえばプサンらしい。

大人になった主人公は、オーブをすり替える目的を果たした後、悲惨な人生を歩まなければならない男の子に声をかけてしまう。「これから先、つらいことがあったらどうする?」

それに対し「パパスの息子だから大丈夫!」という元気な返事をした男の子

大人になっても人生に迷い自信を無くしている自分の心に、純粋に誰かを信じる気持ちが突き刺さる。手を伸ばせば再開できる、扉の向こう側にいる死んだ父との再会を踏みとどまった理由は、今や自分自身が父となり、かつてパパスがそうしたように、一刻でも早く息子のそばに居てやりたいと思ったからか。
最後に、お父さんを大切にするんだよと声をかけ、その場を後にした主人公。映像はずるい。ゲームよりはるかに泣ける。




その6 ミルドラース

マスタードラゴンは力を取り戻し、ゲマとの最後の戦いへ。

ヘンリーが別れ際「お前の父上に命をもらったと思っている」というかっこいいセリフをはいていたので、どのピンチに登場するのかと思っていたら、最終決戦まで来なかった。

壮絶な激戦が予想される中、主人公は向かってくるジャミとゴンズをワンパンで秒殺する。あれ?あまりにも一瞬の出来事だったので色違いのラムポーンとソルジャーブルだったのではないかと今では思う

どこまでも狡猾なゲマかネクロマンサーを何やかんやで倒した後、いよいよミルドラース復活ーっ!のテンションで、赤くてグロテスクなナメック星人の登場を期待していたら、天から降臨したのは白くてツルツルのフリーザだった・・え?

なるほど、映画公開当時からラストシーンの否定的意見は聞いていた。いよいよラスボスのという段になって、突如としてこの物語が近未来の一人の人間のバーチャルリアルな体験に過ぎないことが明らかにされてしまう。

物語はその後、アンチウイルスとして覚醒したスラリンが、口の中からロトの剣を取り出し(うろ覚え)、ウイルスフリーザを倒して世界に平和が戻る。

なるほど、ここまで来ると、劇中ところどころで知っている前提で進む話、ゲームコマンド的な演出が腑に落ちるし、壮大すぎるストーリーを1時間半に落とし込む肝として機能させていることも分かるようになっていた。

ファンであればあるほど、ミルドラースにはどんなアレンジが加えられているのだろうと、期待しながら待っていたのに、それを見事に裏切る結果になっていて、分かる。わかるぞ、単純にミルドラース待ちだったな!という感想をもった

ただ、物語改編という大仰なものではなくて、ミルドラースという単語を忘れているであろう大多数のプレイヤーや、ドラクエをプレイしたことがない人にとっては、特に不自然さを感じない結末ではないだろうか。

主人公は、このゲームも現実だ!というようなことを言って世界を守る。プレイするゲームをただの暇つぶし、無意味なものだと思っているのか、それとも、価値のある経験だと思っているのか、そのせめぎ合いをドラクエ映画で表現しているに過ぎないと思うし、最終的にゲームは無駄派のフリーザは倒された。ドラクエという経験を大事に思っている人が肯定される物語だと思う。

見終わった後、1日レンタル400円ではなく、2,000円で完全購入しておけばよかったと後悔した。




その他

映画のキラーパンサーはゲレゲレ。ゲレゲレという名前もいいのだが、最近はゲレゲレばかりが脚光を浴び、ボロンゴ、プックル、チロルがないがしろにされ過ぎではないだろうか。



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2 件のコメント :

  1. しよさん こんにちは〜ソーマです( ̄∇ ̄)

    仕事の合間に書き込んでる不良社員です(^_^;)
    映画ドラゴンクエスト、私もレンタルで観ました。

    最初は映画館に観に行く予定だったのですが、
    コロナ禍に出かけるのはちょっと…と延期になり、
    最終的にレンタルしたのですが、ネットに吹き荒れる低評価コメントの数々にビビってしまって。

    最初あんなに楽しみにしていた映画だったのにぁ…と半ば諦めの気持ちを抱いて鑑賞したのですが、感想は「想像してたより全然悪くない!」でした。

    もちろん、低評価の方々の意見もごもっともですが
    純粋なDQV映画として観るのでは無く、DQ世界観映画と言いますか、アナザーDQV映画として観ると
    楽しめるのでは無いかと。

    実際にプレイした私と長男は「コレはコレで有り」
    と言う意見ですし、未プレイの次男は「面白かった~」でした(*^^*)

    おそらくDQシリーズ中1,2を争う作品の為、皆さんの中でコレジャナイ感が強く、拒否反応が出たのかなと思います。

    DQVなのにDQの象徴、アイコンともいえるロトの剣が出た事で、プレイ済みの人やファンだけで無く、未プレイの人にも向けた映画だったのかなと。

    DQの世界観は充分に感じられるし、何よりドット絵でリアルタイムプレイしていた身としては「技術の進歩って凄いなぁ」と素直に感心しながら楽しめた
    映画でした(* ̄∇ ̄*)



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    1. ソーマさん仕事中に書き込みありがとうございますこちらも背後に人がいない時は仕事中に堂々と書いてます
      映画悪くないですよね。私は終始「動くドラクエ5」に感動してしまい楽しめない要素なんてほとんど無かったような・・そうそう子供たちも普通に喜んで見れるのがいいですよね。結婚とかよりタルの滝下りとかブオーンが船を投げるのを見て爆笑してました
      テンポよく大げさで起伏のある映像とでもいうんですか、子供でも2時間飽きさせない映画だったなと思います。未プレイの次男君の面白いも納得です
      あまりにも悪評が多いので嫌いな人が何回も書き込んでるのかなと少し残念
      次見る時400円払うの悩むので金曜ロードショーとかでやってくれないだろうか

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